不登校を「受けいれる」ということ

子どもを指導することで「変えようする」立場にいる教師は、「不登校を受けいれる」「ありのままのその子を受けいれる」という言葉を間違って解釈をしてしまうことがあります。子どもの不安やつらさを、全て受けとめようとするのです。そうした教師の対応が、子どもに「あなたはあなたのままでいい」というメッセージを送ることとなり、しだいに子どもに自己肯定感を育てることができると思うのです。

しかし、そうした姿勢は、結果的に子どもの「言いなり」になる結果を生みます。特に、不登校の子どもとの信頼関係を築く段階では、「言いなりになる」ことと子どもに「共感」することが混同されてしまいがちです。

高垣忠一郎さん(元立命館大学院教授・カウンセラー)は、「共感する」と「言いなりになる」ことの違いを次のように語っています。

相手の「ありのまま」を受けいれるということは、「相手を変えようとしない」ということであり、相手の言いなりになるということではない。ところが、日常、あたりまえのように「相手を変えよう」として子どもと接している大人は、「相手を受容する」という聞き慣れないことばを聞くと、それを「相手の言いなりになる」というふうにしばしばひっくり返して理解する。つまり、ズカズカと子どもの内面に侵襲することを否定されたおとなは、「受容」がその反対のことを指すと早とちりをして、今度は子どもにズカズカと侵襲されることを許すのである。それをもって「受容」だと勘違いするのだ。(中略)
こうした自他の未分化なグチャグチャの関係を克服するには、自他の間に限界と境界をしっかりと設けることが不可欠である。それは他人の心の境界線の守りを侵すような脅しは一切使わないということであり、不当な要求にははっきりと「NO!」と言って自分をまもることである。自分にできないことは他人におしつけてはいけないし、自分にできないことは「NO!」と言ってよいのである。

高垣忠一郎 「近年の少年犯罪の背後にひそむものについての一考察」 生活指導研究№22 P43~P44引用

初めからこうしたことがむずかしいかもしれません。不登校の子どもを「変えよう」とするために、大人(教師と保護者)が「子どものためになる」と思うことをさせてしまいがちです。そうした時は、無理やりに登校をさせたり、病院に連れて行ったり、勉強をさせたり、ゲームを規制したり…子どもの内面にズカズカと足を踏み入れてしまいます。

専門家の所に相談に行くと、子どもの気持ちを「受け入れる」ようにアドバイスされるます。すると、今度は逆に子どもの言いなりになってしまいます。「大人の愛情が試されています。」と言われたりすると、子どもを腫物のように扱うようになることもあります。子どもからできないこと(無理難題)を言われても、「受け入れなければ…」と言いなりになってしまうこともあります。こうした揺れ戻しの状況が生まれるのは、決してめずらしいことではありません。

しかし、そこからが教師と子どもの「出会い直し」がスタートです。

自分と子どもの間に限界と境界線をしっかりと設けるようにして、不当な要求には「それは、できない。」と言って、自分を守ることを始めます。と同時に、以前のように子どもの内面にズカズカと踏み込むこともしないようにします。

そのうちに、どちらかが言いなりにならないからと言って、イラつくのではなくて、「しかたない」と見極めること(見捨てるのではない)ができるようになっていくようです。

つまり、「受けいれる」ということは、どちらか一方が言いなりになることではありません。自他の区別をし、境界を踏み越えさせないための「NO!」を、安心して互いに言いあえることこそが、受け入れるということなのです。大人(教師・保護者)が、子どもの要求に「NO!」と言うことは、子どもが「NO!」と言うことを認めることができることでもあります。「NO!」と言っても、見捨てられることはないという安心感を子どもに与えることができるということです。子どもが、大人との関係の中で「自分のことは自分で決められる」と思える安心感をもてるということなのです。

不登校の子どもと向き合いながら過ごしてきた教師は、そうして、子どもには子どもの人格があることを認めることができるようになります。そして、子どもの生き方(不登校)を受けいれていくのです。

加嶋文哉