教師の「何もしないで見守る」と「無関心」

教師の「何もしないで見守る」と「無関心」。見た目は同じ見えるけど、大きな大きな違いがあります。

クラスに不登校の子どもがいると、多くの教師が家庭訪問をします。しかし、子どもが会ってくれるとは限りません。子どもの家が近くなると、少しドキドキしてきます。玄関の前に立ち、軽く深呼吸…。ドアを開け「こんにちは。」と少し明るく挨拶します。「はーい。」というお母さんの声。「○さんはどうしてますか?」と尋ねると、「先生、いつもすみません。ちょっと部屋から出てきません。」とすまなそうな表情を見せるお母さん。「いえいえ、気にしないで下さい。」と、お家の方と少し立ち話をします。「子どもは、今どういう気持ちでいるのだろう?」と、その子に思いをはせながら話をします。

場合によっては、その家庭訪問さえしてはならない時があります。教師が家庭訪問をすることで、子どもが心理的に追い詰められていく場合があります。大きな音を立てて不安を表したり、バリケードを作ったり…。そんな時は、「何もしない」対応が求められます。

しかし、不登校を「解決?」するために、「早期発見・早期対応」を行政が求める状況では、「何もしない」を貫くのはなかなか大変です。また、常に指導をするのが仕事の教師は、何もしないと自分自身が不安になりがちです。周りからは「怠けている」とか「無責任」というふうに見られるかも知れません。校長からは「先生、○さんには今どういう対応をしていますか?」と聞かれることもあるでしょう。「ハイ、何もしていません。」などと答えるのは、ちょっと勇気がいります。

人間はあれこれ手出しをされるよりも、何もしないでいてくれることがありがたい時があります。心に安定を取り戻すためには、他者から干渉されたくない時があります。静かな時間と空間が必要な時があります。

しかし、何もしない時ほど、その子どものことに関心をもつことが大切です。「何もしないで見守る」のと「無関心」は、見た目は同じですが、内実は全く違います。「何もしないで見守る」のは、その子が必要とする時はいつでも対応するけど、「無関心」は子どもとのつながりが切れているので可能性がありません。

「何もしないで見守る」時は、「その子にとって学校とは」「その子にとって成長とは、幸せとは、生きるとは」…と、教師は自らに問いかけ続けますが、「無関心」は自分のメンツしか考えません。「何もしないで見守る」時は、子どもの苦しさに見合うだけのエネルギーを使いますが、「無関心」は子どもや親に対して「あなた次第だ」と仕事?として冷たく伝えるだけです。

誰のために、何のために不登校の子どもに対応するのか?それは、ほかならぬその子どもの最善の利益のためであることを忘れてはなりません。